それでも、一夫が帰ってくる・・・という思いがひとりでに翔子の気持ちを浮き立たせていた。実家の両親や弟にまでもからかわれるくらいであった。実際には、舅の世話に加え、最近では病気がちになっている姑をかかえて、かなり生活が大変になってきているにも関わらずである。
終戦後の物資の不足は、さすがの翔子の実家にも影響を及ぼしていて、翔子に給料を払うのが精一杯になってきていた。翔子は、生活のために朝早くには畑を耕し、昼には実家で働き、その合間に舅と姑の世話をしてと、朝から晩まで身を粉にして働いていた。
あの、終戦の玉音放送からもう五年半。一夫はまだ帰ってこなかった。何の音沙汰もない。さすがに翔子の顔からも、しばらく前からほほえみが消えていた。身体の不自由な舅を残して、姑は去年の夏に他界していた。そして今度は実家の父親が他界した。何かと頼りにしていた父親の死は、まるで全身から力が抜けていくような思いだった。それでも、抜け殻のようになってしまった母親を支えていかなければという思いが、翔子を奮い立たせた。
翔子の結婚は、苦労の連続であった。
たった一晩だけの新妻だったからではない。それは珍しいことではなかった。恋人や婚約者を戦地に送り出す前に祝言をあげたカップルは、他にも大勢いたからである。
翔子の不幸は戦後にあった。一夫の消息が知れないままなので実家に帰ることもできず、また病気の一夫の両親を放っておくこともできない。しかも女学生の時に結婚して以来、ずっと若い翔子一人の肩に生活の全部がのしかかっていたことが不幸であった。それでも実家の父親が生存中は何かと力になってくれたが、後を継いだ弟ではそうはいかなかった。母親は、父親を亡くしてからというものまるで元気がなくなり、翔子に気を配る気持ちも失せていた。
翔子は必死になって働いた。実家の家業が危うくなったときにも、弟を助けて何とか持ちこたえさせた。
辛いとき、悲しいとき、嬉しいとき・・・何かにつけて、翔子は一夫に結婚を申し込まれたときのあの土手を歩いた。ここの景色はあの時と何も変わってはいない。川面を見るたびに一夫の顔を思い出し、川を渡って吹く風が一夫の声を思いださせた。せせらぎはいつも変わりなく、ただ時だけが流れていた。
舅が亡くなり、相次いで実家の母親が亡くなった。
翔子は今でも実家で働きながら一人で暮らしている。
一夫が出征してからもう30年・・・ 時代は急速に変わっていた。隠れて聞いていた洋楽は道端にあふれ、若者達は堂々と腕を組んで歩いている。
あれからずっと待ちつづけていたが、一夫はとうとう帰ってこなかった。再婚話も何度かあったが、一夫の両親のことを考えると再婚することもできなかった。それでもたった一度の一夫とのデートの思い出が翔子を支えていた。結婚を申し込まれた時の喜びが、いまでも翔子の胸を熱くする。
ぼんやり窓の外を眺めている翔子の脳裏に、一夫に聞かせてもらった洋楽のメロディが繰り返し繰り返し流れていた。
・・・完・・・