み〜みん
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mi_min room
せせらぎ
 ぼんやりと窓の外を眺めている翔子の目に、ひとつの傘に肩を寄せ合い中睦まじく話しながら通り過ぎていく男女の姿が映っていた。晩秋の、小雨が降る肌寒い昼下がりである。
 「あの頃は、並んで歩く事さえできなかった・・・」
 翔子の脳裏に、遠い昔の出来事が走馬灯のように浮かんできた。
 翔子18歳。長い髪を三つ編みにした色白の小柄な女学生である。セーラー服にもんぺ姿がなんとも可愛らしく、小柄なせいかともすると年齢より幼く見られる事があった。戦争が激しさを増してきた事さえも、田舎町に住む翔子には実感がなかった。今はただ、隣の一夫お兄ちゃんが帰ってきた事が嬉しくて、カバンを置くのもそこそこに、勉強を見てもらう事を口実にして隣の家へ遊びにいっていた。
 一夫には兄弟がいないせいか、小さい頃から子犬のようにいつも一夫の後をついてまわる翔子を、嫌がりもせずよく面倒を見てくれていた。一夫はこの地方でも屈指の優秀さで帝大の4年に在籍中である。
翔子は一夫の家で過ごすのが楽しかった。一夫の両親も翔子を可愛がってくれたからである。
 翔子の家はこの地方でもかなり大きな商家である。戦争中の今は、軍関係の仕事にも手を広げていた。そんな訳で、戦争が始まってからも翔子の家族は何不自由のない生活を送っていた。そのかわり、翔子は仕事が忙しい両親にはあまりかまってもらえなかった。だから翔子には一夫の母親と一緒に、何やかやとおしゃべりをしながら食事の支度をしたりする事も、父親が休みの日に楽しみで作っている畑の仕事を手伝ったりする事も、ものめずらしく楽しく感じられたのである。そんな翔子を一夫はいつも楽しそうに見ていた。一夫が東京の学校に行ってしまってからも、時々翔子は   遊びに来ていた。
 その頃にはもう手に入らなくなっていた洋楽のレコードを聞かせてもらったり、禁止されていた英語をこっそり教えてもらったりして、翔子にとっては一夫と過ごす時間がちょっぴり秘密めいていて嬉しかった。翔子は漠然とであるが将来は一夫のお嫁さんになりたいと思っていた。ただ一夫に気持ちを打ち明ることは出来なかった。女のほうから気持ちを伝えるような時代でもなかったのである。
 ある日、一夫の方から外で会いたいと翔子に言ってきた。はじめてのことである。翔子は高鳴る胸をおさえながら待ち合わせの場所に出向いていった。
 男の人と、たとえ兄弟であろうと男女が並んで歩いているだけで不謹慎と言われてしまう時代である。こうして一夫と並んで河原に腰をかけていることだけで翔子の胸はドキドキしていた。隣にいる一夫に聞こえてしまうのではないかと思ったほどである。
 やわらかな春の日差しに川面がきらきら輝いている。心地よいそよ風が翔子の頬をなでている。いつもの翔子なら、春の訪れを体中で感じ取ろうとしたはずである。しかし今の翔子にはどうでもよかった。ただだまって隣に座って、翔子のとりとめのない話を聞いている一夫の一挙手一投足が気になってそれどころではなかったのである。そして、それを隠そうと翔子は一人でしゃべり続けていた。
 どのくらいの時間が過ぎたのであろうか。草をむしってはそれを川に投げる事を繰り返していた一夫が、やっと重い口を開いた。
 「ずっと前から翔子の事が好きだ。結婚して欲しい・・・」
 一夫の突然の言葉に、翔子は自分の耳を疑った。聞き違ったのではないかと思ったのである。将来、できることなら一夫のお嫁さんになりたいと、ずっと思いつづけていた翔子である。どれほどその言葉を待っていたことか・・・
 翔子は気が遠くなるほどの喜びを感じていた。
輝く川面も目にはいらなかった。そよ吹く春風も感じられなかった。周りの雑音が遠のき、ただ二人だけの世界になったような感じがした。翔子はその喜びをどう言葉に現したら良いのか解らなかった。ただ嬉し涙が頬を伝った。もちろん翔子に不服などあろうはずもなく、即座に承諾の返事をした。
だが、その喜びもつかの間、次に聞いた一夫の言葉は、翔子に衝撃を与えた。
 この度の一夫の帰省は、召集令状がきたからだというのである。しかも、入隊日が3日後にせまっていた。
 「そんな・・・」
 どこか遠くに感じていた戦争という現実が、いきなり翔子の前に立ちはだかった。天国から地獄へと突き落とされたような思いであった。戦局が厳しいという事は翔子でも知っていた。そんな折に一夫が・・・・それでも、夢にまで見ていた一夫との結婚話に、不安の中にも嬉しさを感じていた。
 一夫が出征する前夜、二人は仮祝言をあげた。一夫の両親は勿論大喜びであったが、翔子の両親はシブシブの承諾であった。無理からぬことである。 突然の結婚話のうえ、一夫が入隊する前に仮祝言をあげたいというのである。しかも日にちがないので今日明日の話だというのであるから、翔子の両親にとってはたまったものではない。一夫が帰ってきてから結婚しても良いのではないかといくら翔子を説得してみても、翔子は聞き入れなかった。
 翌朝、一夫を見送った翔子は新しい生活に早く慣れようと夢中であった。新婚の甘さも何もなく、一夫もいない。それまでは何不自由なく生活していたのが、がらりと変わってしまったのである。それでも毎日の出来事ひとつひとつが翔子には新鮮で楽しく感じられた。
 一夫が出征してから1年4ヵ月たった夏の暑い日に、終戦の玉音放送があった。敗戦に涙を流している人がいたが、翔子には戦争に負けたことなどはどうでもよかった。敗戦の悲しさよりも一夫が帰ってくるという喜びの方が大きかったからである。あと何日待てば一夫が帰ってくるのだろうか・・・翔子の頬にひとりでに笑みがこぼれた。
 一夫が出征してまもなく一夫の父親が脳溢血で倒れてしまい、身体を動かす事が出来なくなってしまっていた。父親の世話は母親が付きっきりでしていたが、生活をしていく為の収入が途絶えてしまっていた。翔子は実家に頼み込んで働かせてもらい何とか生計を維持していた。翔子の結婚に最初から難色を示していた実家の両親は、そんな翔子が不憫でならなかった。労働報酬の他に、何かと娘を気使ってお金やら食料やらを持たせていた。それがかえって翔子にとっては肩身の狭い思いをさせていた。しかしながらそれで生活が大いに助かっているのは事実である。まだ十代の翔子にとって、家族を支えるだけの収入を得る事は並大抵の事ではなかった。
 それでも、一夫が帰ってくる・・・という思いがひとりでに翔子の気持ちを浮き立たせていた。実家の両親や弟にまでもからかわれるくらいであった。実際には、舅の世話に加え、最近では病気がちになっている姑をかかえて、かなり生活が大変になってきているにも関わらずである。
 終戦後の物資の不足は、さすがの翔子の実家にも影響を及ぼしていて、翔子に給料を払うのが精一杯になってきていた。翔子は、生活のために朝早くには畑を耕し、昼には実家で働き、その合間に舅と姑の世話をしてと、朝から晩まで身を粉にして働いていた。

 あの、終戦の玉音放送からもう五年半。一夫はまだ帰ってこなかった。何の音沙汰もない。さすがに翔子の顔からも、しばらく前からほほえみが消えていた。身体の不自由な舅を残して、姑は去年の夏に他界していた。そして今度は実家の父親が他界した。何かと頼りにしていた父親の死は、まるで全身から力が抜けていくような思いだった。それでも、抜け殻のようになってしまった母親を支えていかなければという思いが、翔子を奮い立たせた。

 翔子の結婚は、苦労の連続であった。
 たった一晩だけの新妻だったからではない。それは珍しいことではなかった。恋人や婚約者を戦地に送り出す前に祝言をあげたカップルは、他にも大勢いたからである。
 翔子の不幸は戦後にあった。一夫の消息が知れないままなので実家に帰ることもできず、また病気の一夫の両親を放っておくこともできない。しかも女学生の時に結婚して以来、ずっと若い翔子一人の肩に生活の全部がのしかかっていたことが不幸であった。それでも実家の父親が生存中は何かと力になってくれたが、後を継いだ弟ではそうはいかなかった。母親は、父親を亡くしてからというものまるで元気がなくなり、翔子に気を配る気持ちも失せていた。
 翔子は必死になって働いた。実家の家業が危うくなったときにも、弟を助けて何とか持ちこたえさせた。

 辛いとき、悲しいとき、嬉しいとき・・・何かにつけて、翔子は一夫に結婚を申し込まれたときのあの土手を歩いた。ここの景色はあの時と何も変わってはいない。川面を見るたびに一夫の顔を思い出し、川を渡って吹く風が一夫の声を思いださせた。せせらぎはいつも変わりなく、ただ時だけが流れていた。

 舅が亡くなり、相次いで実家の母親が亡くなった。
 翔子は今でも実家で働きながら一人で暮らしている。

 一夫が出征してからもう30年・・・ 時代は急速に変わっていた。隠れて聞いていた洋楽は道端にあふれ、若者達は堂々と腕を組んで歩いている。

 あれからずっと待ちつづけていたが、一夫はとうとう帰ってこなかった。再婚話も何度かあったが、一夫の両親のことを考えると再婚することもできなかった。それでもたった一度の一夫とのデートの思い出が翔子を支えていた。結婚を申し込まれた時の喜びが、いまでも翔子の胸を熱くする。

 ぼんやり窓の外を眺めている翔子の脳裏に、一夫に聞かせてもらった洋楽のメロディが繰り返し繰り返し流れていた。

            ・・・完・・・